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小児科医のコラム9 「ヘルパンギーナ」

コラム9 ヘルパンギーナ

災難は突然襲って来るものである。そして、それがあまりに深刻な事態ならば「もう自分の命運が尽きた」と観念するしかない。そんな目には一度たりとも会いたくはないものである。しかし、遠い昔、私にもそのような瞬間が訪れてしまった。絶体絶命の境地、決して忘れることはできない。

その日、私はいつもと変わりなく小児科外来で診察していた。机の上にはカルテがしだいに積み上げられてゆく。どれだけたくさんの人が待っているのか一目瞭然である。窓口では「まだですか?」「あと何番ですか?」と人の声がする。少しでも速く診察しようと精一杯努力するのだが、押し寄せる患者さんに追いついてゆけない。焦りが募る。しかし、だからといって手抜きするわけにもいかない。どうにもならない。

夏場の小児科は混雑するのである。夏に流行る病気がいくつかあるためだ。その一つがヘルパンギーナである。ウイルス感染症の一つで、幼児が突然の高熱で発症する。熱の他には、「咽頭痛、食欲不振、不機嫌、嘔吐、頭痛、倦怠感などを認めることがある」と小児科の医学書に出ている。ところが実際には、小さな子が自分から症状を訴えたりしないので、熱以外の症状はあまり目立たないのである。だから、家族にとっても熱の原因がよく分からず、心配になって小児科を受診するのである。

ヘルパンギーナは上あごに発疹が出来るのが特徴である。直径が数ミリの白っぽい水疱で、その周囲が赤くなっている。水疱が破れると浅い潰瘍になる。これらの発疹が上あごの奥の方、口蓋垂の周囲、すなわち軟口蓋に散在するのだ。これを見つけさえすれば、誰でも容易に診断することが可能である。

私は、次の患者さんを呼び入れた。お母さんに連れられて4歳位の男の子が診察室に入ってきた。突然39℃の熱が出たのだという。咳も鼻水もなく、また吐いたり下痢もしていないとのことであった。私はいつも通りに胸の聴診をしたが何の異常も見当たらない。何の病気か診断しなければならないが…困った。手がかりがない。私は一縷の望みを託して男の子に言った「あーんしてごらん」と。子どもの口の中を覗いた。見慣れた発疹が目に飛び込んで来た。ヘルパンギーナである。よかった、診断がついた。私はホッと胸をなでおろした。ところが、まさに次の瞬間、私は運命の時を迎えたのである。

一瞬、何か違うものが見えた。目を凝らした。穴だ。軟口蓋に穴があいているのだ。発疹のすぐ隣に、発疹と同じ大きさの穴がぽっかりとあいている。直径が5o位だろうか。まるで火箸を突き通したようである。わが目を疑った。2度見した。やっぱり穴だ。穴を通して鼻腔の粘膜が見えた。私は凍り付いた。時間が止まった。

『なぜ?…どうして穴が!…』心の中で叫んだ。
『ヘルパンギーナで?』必死で考えた。
もしかしたら、ヘルパンギーナの潰瘍が深くなって、薄っぺらな軟口蓋を突き破ったのか。そんなことがあるのか、今まで見たことも聞いたこともない。医学書にも書かれちゃいない。しかし、それしか考えられない。

『この穴、どうしたらいいんだ。どうすれば治るんだ!』自問したが、全く見当がつかない。いまさら医学書しらべたって無駄だ。そんなこと出てやしない。穴があくことさえ記載がないのだから。
『外科の先生にたのんで、縫ってもらうか』
泣き叫ぶ子供を力ずくで押さえつけ、無理やり口をこじ開け、口の奥を縫ってもらう映像が脳裏に浮かんだ。親はショックで半狂乱だ。いや、そうなったら全身麻酔でなきゃだめだ。緊急手術か?こりゃ大ごとになるぞ。

『待てよ、こんな薄っぺらな膜を縫い合わせるなんてできるのか。たとえ縫ったからって必ず治るのか』
見通しは暗かった。あてずっぽうにやるわけにはいかない。
『治らなかったらどうなる』
猛り狂った親は訴えるかもしれない。被告席にうなだれて立つ自分の後ろ姿が脳裏に浮かんだ。

子どもののどを見てから数秒間、沈黙の時間が流れた。このまま黙っているわけにはいかない。何か言わないと怪しまれる。まごまごしてはいられない。なんと言おうか。医者は嘘をついてはいけないのだ。

『お宅のお子さんののどに、穴が開いてますね』
もし、そんな風に正直に言ったら、親は胆をつぶすだろう。当然「なぜ」と聞くだろう。「わかりません」と答えるしかない。「治るのか」と問い詰めてくるだろう。「わかりません」と答えるしかない。だが、とてもじゃないが、わかりませんじゃ済まされない。親は激怒して矛先を私に向けるだろう。被告席に立つ自分の後ろ姿が脳裏に浮かんだ。
『ああ、これで医者の人生は終わった』

『正直に言ってもだめだ。なんと説明しよう』
ふと、遠い過去のことを思い出した。自分が小学1年の時、級友の植木鉢からアサガオの芽を一本盗んだ記憶。今でこそ医者だが、何のことはない、元はといえば、切羽詰れば盗みまで働く人間だ。どうせ俺はそんな人間だ。罪人なのだ。いまさら何を善人ぶっているんだ。俺は腹をくくった。

私は平静を装って、母親にこう告げた。
「ヘルパンギーナですね。夏カゼの一種です。これが熱の原因ですね。心配ないですよ。」
そして、頓服の解熱剤を処方してあげた。お母さんは礼をいって男の子を連れて診察室から出て行った。

私は、穴のことは黙っていることにしたのである。見なかったことにしたのである。もし後で発覚しても、気が付かなかったことにしよう。そう心に決めたのだ。

その後、山積みになったカルテの患者さんをどう診察したか、記憶がない。そして、その日の診療が終わり、私は自分の宿舎に戻った。あの親子、今頃どうしているだろう。家に帰ってから、家族が気が付かないだろうか。だんだん不安になってきた。子どもがのどを痛がって、親がのどを覗き込もうものなら、てきめんにあの穴を見つけるだろう。度胆を抜くだろう。夜中だろうがなんだろうが、いきり立って救急外来を押しかけるだろう。昼間診た医者は何やってたんだ、どうしてくれるんだ、昼間の医者を出せと怒鳴り込んでくるかもしれない。なかなか寝付くことはできなかった。

翌日、私はいつもどおり病院に出勤した。なるべく目立たないように身を縮めた。そして、病院内のうわさ話に耳をそばだてて聞き入った。夜間の救急外来でひと騒動なかったか。朝からあの親子が押しかけて来て大騒ぎになってはいないか、気が気ではない。しかしながら、何事も起らずに一日の診療が終わった。私は自分の宿舎に戻った。その日の夜もなかなか寝付くことはできなかった。

翌々日、さらにその翌日…、一向にあの親子が押しかける騒動は起こらなかった。しかし、あの穴に気付く時がいずれきっと来る。不安を拭い去ることは出来ない。

幸い何事も起らず数か月が過ぎていった。忘れかけていたある日、私はギョッとした。外来の机に積み上げられたカルテの一番上にあるのは、あの男の子のカルテである。いよいよ気が付いたか。

私は、内心戦々恐々としながら男の子の名前を呼んだ。まさにあの男の子とお母さんが診察室に入ってきた。私はつとめて平静を装った。どんなことで受診したのか訊ねた。すると、鼻水と咳が出るとのことであった。どうやらカゼをひいた様子である。まだ気が付いてないようだ。いつものように胸の聴診をした。なんの異常も見られない。いよいよ口をみる段になった。私は勇気をふりしぼって子どもに言った、「あーんしてごらん」と。

目を細めて覗いてみると、あの穴は跡形もなく消えていた。そこには、きれいに修復された軟口蓋が広がっていた。自然に治っていたのだ。

よかった。ホッとした。ありがたかった。心臓に刺さっていた棘がぬけたようであった。私はそんなことはおくびにも出さず、「カゼですね、心配ないでしょう」といって、風邪薬を処方した。親子は礼を言って診察室から出て行った。

今から20数年前の記憶である。私は医者になったばかりの駆け出しだった。少しでも早く一人前の医者になりたいと気がはやっていた。子どものことなら何でもそつなくこなせてこそ一人前の医者だと思った。だから、「知りません、わかりません、できません」はご法度だったのだ。

しかし、この一件で私の考えは変わった。すべてを完璧にこなせる人などいない。誰にでも限界はある。当然、自分にも。それを素直に認めることが大事だ。そして、当たり前だが、自分の限界まではベストを尽くす。しかし、それ以上ともなれば、恥も外聞も無く、自分以外の力を借りられるだけ借りて、とりうる最良の策をとればいいのである。そこには、嘘もない、知ったかぶりもない、ごまかしもない、やましいことなど一つもない。結果は後からついてくるのだ。そう、ヘルパンギーナが私に教えてくれたのであった。私は肩の力が抜けるのを感じた。だから私は声を大にして言いたい、 「ありがとう!ヘルパンギーナ!」