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小児科医のコラム28 お客様の声

コラム28 お客様の声

私は10年ほど前から時々散歩をするようになった。きっかけは椎間板ヘルニアである。手術した後、左足の筋力がだいぶ落ちてしまった。そのリハビリが目的で始めたのである。最初はただ歩くことさえも危険だった。バランスを崩して倒れ込む恐れがあったのだ。車が来てもとっさには避けられない。みかねて家内が付き添ってくれるようになった。つまり、介護付きの散歩である。

家内と近所を散歩していると、よく知り合いに出くわしたり、いつの間にか誰かに見られていたりする。そうすると、たいがい「仲がいいですね」といって冷やかされるのだ。はなはだ遺憾である。こちらはちゃんと歩けるようになるか心配だというのに。その訳を話しても、すればするほど詮索されるのが落ちである。しょうがない。そこで私は、暗くなってから歩くことにしたのである。家のすぐ近くには郊外型の店舗が立ち並んでいて夜まで開いている。店の中を物色するのがちょうどよい散歩コースになった。夜でも安心だ。明るくて、床も平らで歩きやすいし、雨でも平気である。辻強盗にあう心配もない。終業が近くなった時間帯は人影もまばらで、ゆっくり見て回れる。そのうちに「蛍の光」が流れだすと、散歩も終了となるのである。

ところで、家内と散歩を始めてみたら意外なことが分かった。散歩がてらに家内と色々な話をしたのである。話ができたのである。逆に言うと、それまでは家でまともに話などしてこなかったのだ。そんなことに改めて気づかされた。仕事に明け暮れていたときは、帰宅したらごはん、テレビ、新聞が優先していた。家内が話す言葉はほとんどうわの空であった。ところが、散歩というのは適当に歩くだけなので、おのずと会話の方に神経が向いたのだ。落ち着いて日常会話ができたのである。新鮮であった。そして、なんだかホッとしたのである。自分からも最近あったことなどを話すようになった。こういうことも大事だなあと感じられた。
その後、足は普通に歩けるくらいには回復して、リハビリの目的は薄れていった。しかし散歩は今でも続けている。気分転換、家内とのコミュニケーションになるのだから。

ある日の夜、いつもより遅い時間になってしまった。よく行くホームセンターはそろそろ終わる時間だ。そこで、行先を家電量販店にかえることにした。あそこならまだあと一時間やっている。さしあたって買いたい物などないが、それでも何か目当てにするものがあった方が散歩にも張り合いが出るというものである。考えてみれば、我が家のマッサージチェアーの調子がおかしくなっている。べつに買い換えようとは思わないが、そんなものでも見に行こうかと思った。家内と世間話をしながら電気店に向かった。

店の健康器具のコーナーに歩いてゆくと、最新のマッサージチェアーが並んでいた。昼間ならば必ずと言っていいほどお客さんが椅子に座って揉まれている光景を目にするが、やはり終業に近い時間帯ではお客さんは誰もいなかった。ブルーのジャケットを着た店員さんが一人、柱の横でこちらを背にして立っていた。お客さんがいなくては何もすることがないのだろう、身動きせずじっと立ち尽くしている。持ち場を離れるわけにもいかないのだろう。終業までそこでじっとしていなければならない。時給はいくらなのだろう、仕事するって大変だよなあ、あともう少しで閉店時間だから頑張れよと、私は心の中でエールを送った。

今の機種はどんな風になっているのか、値段はどのくらいするのか、遠巻きに眺めて家内と話していると、すかさず店員さんがクルッと向きを変えて近寄ってきたのである。まるで我々を待ち構えていたかのようである。背を向けて立っていたのは、もしかするとワザとだったのかもしれない。お客さんに逃げられないように、気付いていないふりをしていたのだ。そして、お客さんが商品に近づいてくるのを待っていたのである。中年のおばちゃんだった。胸にはパ○ソニックと書かれてあった。

「どうですか、お試しになりませんか」と勧めてきた。「これが今大人気なんですよ」と。私も家内もあまり乗り気ではなかった。買うつもりなど毛頭ないのである。断りきれなかったらどうしよう、断るのもあまりいい気がしない。しかし、「試してみるだけでも」という。店員さんの手持無沙汰も可哀想だから、すこし付き合ってあげてもいいか。私は一番高いグレードの椅子に座ってみた。全身がすっぽりはまったという感じである。背もたれを思い切り倒してリクライニングにしてみた。このまま眠れそうである。家内も隣の同じ機種に身を沈めた。店員さんがコントローラーのスイッチを押して、マッサージが始まった

二十年も前に買ったわが家のものより格段に進化している。ただ単に背中から首、肩、腰をマッサージするだけではない。揉み玉が3次元に動くのだという。それどころか、ふくらはぎなどはまわりじゅうから締め付けられてストレッチされる。太ももの裏側は下からつきあげられ、骨盤は座面が揺れて揉みほぐそうというのである。肩から肘にかけての上腕は左右の両側からギューッと締め付けられる。指圧されているような気持ち良さである。さらに驚いたことには、ひじ掛けの部分がパカッと開いた。ひじから先の前腕をそこに入れるのだという。言われたようにすると、開いた部分がだんだん閉じてきて、指先まで押しつぶすように圧迫してくる。なるほど、こうすると腕や指の疲れまでも取れるようである。思いもよらなかった仕掛けが組み込まれてあった。これが全身コースなのだという。
家内がいろいろと細かく感想を述べると、おばさん店員は私から遠ざかり、家内の方に移動して一つ一つ答えるように説明し始めた。そして、おばさんは胸を張って言った、「パ○ソニックはお客様の声を取り入れて進化し続けてきたんです」と。私はリクライニングの姿勢のまま、店の天井を見上げた。

私は気持ちよく身をゆだねていたが、あとどのくらい続くのか気になった。頭を持ち上げて脇のコントローラーを見たけれども分からなかった。しかし、私は別のことに気が付いてしまった。なんと、社会の窓が全開であった。なにもこんな時に限って…。そうか、だから店員さんはそれとなく私から遠ざかって行ったのだ。見て見ぬふりをしたのである。私はチャックを閉めようと思ったが、両手ともひじ掛けの中に突っ込んで挟まれている。まさに張り付けの状態、しかもフルリクライニングの姿勢である。社会の窓がいいさらし者になっていた。無理矢理にマッサージ機から手を引っこ抜いてチャックを閉めようとすれば、おばちゃんにはすぐばれるだろう。こちらが気が付いたことをおばちゃんには気付かれたくはない。下手な動きはしない方がいい、しらばっくれていることだ。おばちゃんと同じように私も平静を装った。お互いに、見て見ぬふりをし、見られて見られてないふりをしたのである。今の今までが安楽な椅子だったのが、突如として針のムシロに変わった。

家内は相変わらず気持ちよさそうな感想を口にしているが、おばちゃんと私の間には長く長く、そしてよそよそしい時間が流れていった。やがて既定の時間が経過して、全身コースは終了した。椅子の動きが止まり、私はやっと解放されたのである。「どうですか」ときいてくるが、どうもこうもない。早く立ち去りたいだけである。うつむいたまま「検討します」と答えると、パンフレットをくれた。私は左手で受け取って何気なくズボンの前を隠すようにした。健康器具のコーナーを曲がっておばちゃんから見えなくなった途端、すぐに右手をポケットから出してシャツの裏側から指を伸ばし、気付かれないようにチャックを閉めた。

私はおばちゃんに言ってあげたかった、「お仕事お疲れさまでしたねぇ」と。「仕事するって大変だねぇ」と。おばちゃんがおばちゃんでいてくれたのでありがたかった。これがもし若くて綺麗なお姉ちゃんだったら、私の精神的ダメージは比べ物にならなかったでありましょう。
そして、パ○ソニックには私からの『お客様の声』をお伝えしたい。「マッサージチェアーの営業は、一応お客様の社会の窓を確認してから行うように」と。そのように社員教育を徹底して、営業マニュアルにもこの一文を付け加えていただくよう、お願い申し上げたいのである。

私と家内は会計のカウンターの前を通り過ぎ、階段を下りて店舗の外に出た。ぶらぶらと散歩の帰りが始まった。私は家内の脇腹をつっつきながら言った。「あのさー、報告したいことがあるんだけど…、さっき…」
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