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小児科医のコラム31 いんげん

コラム31 いんげん

昔、わが家の裏の畑の隅っこに栗の木が二本生えていた。何の手入れもせずほったらかしであった。それでも秋になるとイガグリが落ちて栗の実がとれた。数はそう多くとれないし実もやせている。これだけでは全然足りないから新たに栗を買って来て、合わせて天日干しにするのである。私は縁側のざるに乗せられた栗を見て、いつ食べられるのか楽しみに待った。良い頃合いになると母が大きな鍋で茹でてくれた。茹であがったばかりの栗は外側の硬い殻もふやけていてむきやすい。だけど、せっかく殻を剥いても中が虫に食い荒らされてあったり、実の中に虫が食い入ってトンネルが出来ていたりする。殻に虫食い穴が開いていれば、もうむく前から残念なのである。虫に齧られた痕は爪で削ったり、引き剥がして食べるのである。ちなみに、ぐんまの方言で「引っ掻いて剥がす」ことを「かっぱく」という。だから、私は虫食い痕を爪でかっぱいて食べたのであった。

夏には母がよく枝豆を茹でてくれた。まだ湯気の出ていて暖かいうちに食べるのが一番うまい。塩をまぶして食べるのである。さやを唇でくわえて、指で豆を口の中に押し出す。さやに付いた塩粒の味と豆の味が口の中で混ざり合うのだ。だけど、厄介なことが一つあった。虫に食われているものが混ざっているのだ。さやを見れば分かるものもあるし、透かして見ると分かるものもある。全体が変色している。分かりにくいのは豆の表面を食い進んでその痕が溝のようになっている奴だ。その溝に青虫が横たわっていることもある。食事中だったのだろうけれど、一緒に茹でられてしまったのだ。私は豆をいちいち見て確かめるようにしたら、結構見つかるのである。今まではさやから直接豆を口に入れて食べていたから分からなかった。知らずに食べてしまっていたのだ。そんな豆は気持ち悪くてもう食べることは出来ない。こうなった以上、全体検査である。皿に豆を出して、齧られたあとのない物だけを食べるようした。

ところがどうだろう、最近の枝豆には虫に食われたものが一切なくなったのである。全体検査していたから分かるのだ。すべて合格である。やってもやってもすべて合格なのである。よほど農薬を使っているのか、農業技術が発達したからなのかは分からない。多分後者の方だろうと思うことにしている。消費者の健康志向の高まりから、農薬は使われない方向になってきているではないか、そう思って納得するようにしている。だから、私はもう何年も前から検査するのは止めた。私は安心したのである。そして、さやから直接豆を口の中に押し込んで食べるやりかたを取り戻すことが出来たのであった。

いんげんは、茹でたり味噌汁の具になったり天ぷらにして食べた。いんげんの場合、見た目には虫に食われている様子もなく、これまで食べてきた経験からも虫に食われているのに遭遇したことはなかった。 ある日のこと、夕食のおかずは野菜の天ぷらだった。大皿に盛られて出てきた。その中にいんげんのものもあった。我が家では天ぷらは醤油をつけて食べるのが習わしである。天つゆなどというものは大人になるまで知らなかった。私はそれを箸でつかんで片方の端っこを醤油の小皿につけた。そして口いっぱいに入れてガブリと噛んだ。いんげんの細長い天ぷらは一口では食べられないのだ。噛み切った残りの天ぷらの断面を見ると、何ということであろうか、一本のいんげんの中に青虫がうずくまっているのである。 『ぎょえーっ』
青虫は茹で上がって真っ白になっていた。私は口の中の天ぷらをほき出しそうになった。もう少し深く噛んでいたら危うく食べる所だった。すぐお母さんに言った。そしたらお母さんが答えてくれた。
「だいじょうぶだよ、あきちゃん。熱で消毒されてるから」

そういう問題ではないのだが、そう反論すると「戦争中のことを考えればどうってことないよ」と言い返されたのだった。以来、四十年以上経過した。時にはいんげんが食卓に上った。私は中を確かめようと思った。だけど、いんげんはさやごと食べるものだ。さやを開いてバラバラにして豆を確かめたのでは食べようがない。天ぷらなら衣をほぐして一本一本なかを開いて見なければならない。そんなことすれば天ぷらではなくなる。私は全体検査どころか一切確かめることをあきらめた。もしかしたら青虫がいるかも知れないと思いつつも、毎回その考えを押し殺すようにして食べたのである。だんだんとその疑念は薄れて行ったものの決して消えることはない。時々は思い出されるのである。もしも農業技術が進んだとすれば、いんげんの青虫も今では駆逐されているかも知れない。いっぺん農家の人にでも聞いてみたいものである。