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小児科医のコラム45 日本自動車博物館 その一

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コラム45 日本自動車博物館 その一

「日本」と名のつく自動車博物館である。であるからには日本を代表するという自負があるのだろう。実際に常設展示がおよそ五百台と日本最大級なのだ。さぞかし日本のメジャーな大都市にあるかというと、これが現在は石川県小松市にあるのだ。元々は富山県小矢部市にあった。小松市や小矢部市を馬鹿にしているわけではなくて、東京や大阪といった都会からだいぶ離れた地方都市にこんなすごい施設があると言いたいのである。だから目立たない隠れた存在になってしまっているのだ。自分が学生生活を送った町からはそんなに遠くない場所にこんな施設があったのが意外であった。友人の車に乗ってドライブがてら見学に行った。クラシックカー、超高級車、スポーツカー、外車、日本の車、戦争で使われたトラックなど、見応え十分であった。

実はその博物館に私が実際に使用していた車が展示されているのである。学生時代に愛用していた「ブルーバード1600 4ドアDX」だ。二階のダットサンのコーナーにおいてある。思い出がいっぱい詰まっているこの車はもともと友人の実家で使っていたものであった。十年間使ったので買い替えるから私にくれるというのである。友人は別のスポーツタイプの車を既に持っていたのだ。学生の分際で車なんかと思われるかもしれないが、地方都市での生活は学生であっても車がないと非常に不便だったのである。ほとんどの同級生が親から車を買ってもらって使用していた。私にくれるというのはありがたい話だが、そんなに大きなものをタダとは気が引ける。思い付きで十万ではどうか提案した。そしたらその友人が中をとって五万でどうだと言ってきた。そんなに安くていいのかと、私にとっては願ってもなかった。その頃発売されたスズキのアルトという新型の軽自動車が驚きの低価格で四十七万円だったのである。

こうして私も車を手にいれることが出来た。十年落ちで走行距離は八万九千キロ余りだったと思うが記憶は定かではない。何しろ三十年以上前のことなのであるから。当時は十年十万キロで廃車が当たり前のような時代だったから、まあかなり古びてガタが来ていた。私はこの車をとっても大事にして六年間乗った。月日が経過するにつれて同じ型の車は急速に姿を消していった。私の車はめったに見かけない珍しい車になったのである。このころの若者は車に関心が高く、内装を飾ったり、装備を改造する、アルミホイールを履く、スポイラーを取り付ける、塗装を変えるなどいろいろ行うのが流行っていた。他の人が乗っていない車に憧れたのである。お金をつぎ込んで自分だけの車にしたのだ。そうでなければ超高級外車を買うしかなかった。

私もそうしてみたかったけれど、そんなことに使うお金はない。それでも、ラジオしかついていなかったからカーステレオだけつけることにした。後は洗車とワックスがけを良く行った。錆びないように、長持ちするようにである。そしていつも綺麗にしていたかった。シルバーメタリックの車体にワックスをかけると遠目にも輝いて見える。古いのに新しさを保っている。それが私にはかっこよく感じられた。地道に手入れし続けることで他にはほとんど走っていない車、お金では真似することができない車、つまり自分だけの車になっていったのである。しかもオリジナルを保ったままだ。気分はネオ・クラシックカーである。だからスピード出して突っ走るよりも、むしろ悠然と走る方が気持ちよかった。

古い車だから新しいのに比べてエンジンの出力も小さいし車重も重い。当然スピードも加速も大きく見劣りした。しかしそれはどうでも良い事であった。大事にゆっくり走ることをモットーにしたのだから。車体の鉄板は分厚くてどっしりしている。たたいてもへこむことはない。新しい車では軽量化のために薄くてぺこぺこして安っぽいのだ。そんなことでさえも優越感に浸れたのである。ボディは典型的なセダンの形で後方視界も良好だった。当時は空力抵抗などそんなには重視されてはいなかったからデザインの自由度が大きかったのだろう。車体の形状にも個性があった。私にとってこの車はあばたもえくぼで全てが気に入った。まさに愛車になった。可能な限り長く乗り続けたいと思った。そうすればクラシックカーと呼ばれるようになるかもしれない。

ところが突然に愛車を手放さなければならない事態になった。事故を起こして廃車になったのではない。それは私が医者の研修を始めて数か月たったある日、義理の伯父さんが急に亡くなったのである。その伯父さんが乗っていた車を急遽私に譲ってくれるという話になった。その車はハイソカーのはしりといわれた国産高級乗用車で、しかもその最上級モデルである。伯父さんは社会的に高い地位にあった人で、もし交通事故に遭ってもなるべく怪我しないようにと大きい車を選んで乗っていたのである。それを伯母さんが譲ってくれると言うのだ。私がボロボロの車に乗っているのを知っていたのだ。普通ならこんないい話はないのだが、譲り受けるとなったらそれまで乗っていた車を手放さなければならない。私はそうしたくはなかった。学生時代の思い出がいっぱい詰まっているのだ。単なる機械だけれども愛着を感じていたのである。いつ壊れるとも知れないポンコツだが、直して使えるうちは直して使おうと思っていたのだ。しかし、そんな浮世離れした考えで伯母さんの好意を無にすることなど出来ない。もしも理由を話して断ろうものなら皆が呆れるに違いない。けっきょく私はしかたなしに、ありがたく頂戴することにしたのである。

今まで乗っていた車はどうするか。十五年落ちの車、廃車にするしかないのか。私は自分の愛車がスクラップになるなんてとてもじゃないが耐えられなかった。かといって趣味で車を二台持つことなど駆け出しの研修医にはとても出来ない。でも、どうしてもスクラップにするのは嫌だ。思い出そのものなのだ。私は学生時代に何回か見学に行った日本自動車博物館を思い出した。日本の車、それも忘れ去られてしまうような庶民の車も集めて展示してある。ダメもとで電話してみた。断られたらどうしようか、緊張しながら熱い思いを語った。そしたら「いいですよ、引き取りましょう」と言ってもらえたのである。よかった。うれしい。永久保存だ。ありがたい。

後日、私は指定された場所に引き渡しに行った。その前日の深夜、便箋に何枚も車の思い出を何から何まで全て書いた。それを博物館の人が読んでくれるように他の書類と一緒に車のグローブボックスに入れたのである。車を止めたところでしばらく別れを惜しんだ。車のまわりを何周もした。立ち去りがたかった。帰りは路線バスである。その時間がきてしまった。やむなくバスに乗り込んだ。座席にすわってバスが走り出したら喪失感でいっぱいになった。それからどうやって下宿まで帰ったかなどまるで記憶には残っていない。

それから二十一年余りたったある日、私は博物館を訪れてみた。ある医学の学会がそちらの方で行われたので、ついでにと少し足を伸ばして行ってみたのである。建物の二階に日産の広場というのがある。その中のダットサンのコーナーだ。ドキドキしながらエスカレーターで上った。気が急いた。目を見張った。あった!あったよ!これだよ、これ、僕の車。近づいてみる。ワックスがけしていたあの頃のままだ。受付の人に事情を話して柵の中に入る許可を得た。触るとあの厚い鉄板の感触だ。なつかしい。たくさん記念撮影した。後ろにまわってみた。トランクの塗装に傷みが出ていた。自分が乗っていた時にはなかったものだ。展示されるまでかなりの時間、野外に置かれていたのだろう。でももう安心だ、こうやって屋内で余生を長らえているのだから。運転席のドアを開けてみた。隣の展示車との間が狭くて乗り込むことは出来ない。後のドアからかろうじて後部座席に乗れた。ビニールのシートすわり心地、昔のままだ。インパネもコラムシフトのレバーも何もかも記憶の中からよみがえってきた。ハンドルカバーの紐の結び目にいたるまで変わりはなかった。無事に再会できた。本当に良かった。

あの手紙、どうなっているだろうか。研修医の仕事が終わってくたくたになって深夜に下宿に帰ってから書いた手紙、別れを惜しんで思いの丈を綴ったあの手紙、もしあれば読んでみたい。そうすれば過去の自分に逢えるかもしれない。私は車外に出て助手席のドアを開けてみた。こちらも乗り込むほど開けることは出来ない。隙間から手を伸ばして手回しで窓ガラスを下げた。開いた窓から手を差し入れてグローブボックスを開けた。だが、そこには手紙も書類も車検証もなく、空っぽであった。