スマートフォンサイト
「子どものホームケアの基礎」のスマートフォンサイト。 子どもさんが具合の悪いときなど、枕元でご覧いただけます。 音声の読み上げも、アプリのインストールで出来ます。
QR

小児科医のコラム57 もてないかもしれない理由

子どものホームケアの基礎 ホーム > ほっとコラム > 57 もてないかもしれない理由
コラム57 もてないかもしれない理由

私は帰宅して玄関を開けたら運動靴が脱ぎ捨ててあった。息子のだ。久しぶりの帰省である。私は奴の靴に吸い寄せられてしまった。あまりにもボロボロなのだ。擦り切れて裂けた穴は一つだけではない。ここまでみすぼらしいとさすがの私もちょっと引いてしまった。まさか、まだ使うつもりなのだろうか。まあそうなのだろう。だからそれを履いて帰って来たのだ。ということは、おそらく限界まで履くつもりだ。実利的な考えである。しかし、そうはいっても少しは見栄えというものがあるじゃないか。これを見た人はどう思うだろう。よっぽど貧しい苦学生か、物を大切にする地球環境に優しい青年と好意的に見てくれるだろうか。とてもそうは思えない。身なりなど気にしない野暮天か、あるいは類まれなけちんぼと蔑まれるんじゃないだろうか。心配になった。

ズボンだって高校時代からもう何年もはいている物だ。ずいぶんヨレている。しかも、体格が大きくなったからピチピチで裾はツンツルテンである。でも、まだはける。だからはいているのだ。もしかしたら破けるまではくつもりなのだろうか。大丈夫かなあ。まわりから敬遠されていなければいいのだが。

その息子が冷蔵庫から麦茶の入った冷水筒を取り出した。奴はそそぎ口を開けたかと思うと水筒を高く掲げ、自分の顔の方に傾けたのである。つまり、水筒から直接に麦茶を飲もうとしたのである。そそぎ口から麦茶が空中にこぼれ落ち始めた。それを下で大口を開けて待っている。麦茶が口の中に注がれていった。口がいっぱいになると水筒の傾きを戻しながら下に降ろした。口を閉じてごくりと飲み込んだのである。一滴もこぼすことはなかった。まるで斎藤道三の油売りだ。そそぎ口を閉めると何事もなかったかのように水筒を冷蔵庫にしまった。見事である。かようにすればコップを使わずに飲めるのだ。その結果コップを洗わなくてすむ。洗うための水も洗剤も手間も時間もいらないのだ。

つまり、「使えるうちは使えるだけ使う、使わないで済むものは使わずに済ます」という節約精神なのだ。これはおそらく奴の中ではかなり優先順位の高い価値観なのだろう。ほんのわずかなことにも徹底して実践しているのだ。もう少し見た目を考えたらどうかと思うのだが。そこまで切り詰めるほどお金に困っているわけではないのだから。しかし、たぶん一事が万事この調子で生活しているのだろう。これじゃあ女の子に全然もてないことは容易に想像できる。親としてはすこし心配だ。

なんでこんなふうに育ってしまったのか、その理由は明白だ。私の影響であろう。たとえば、私が子ども達と一緒にお風呂に入った時のことである。私はシャンプーで髪の毛を洗い、浴槽のお湯を桶で汲んで頭から泡を落とすのだが、床にはもう一つの桶を置いておくのだ。そうすると、流れ落ちるお湯と泡を受け止めることが出来る。その泡をあかすりですくい取って、それにさらに石鹸をつけ加えて体を洗うのである。つまり、シャンプーの泡の再利用である。頭を洗った泡がそのまま排水口に流れて行ってしまうのを見て、もったいないなあと思ったのだ。これをもう一度使えば、わずかでも石鹸の消費を少なくできるではないか。子どもに聞かれたことがあった、「なんでそんなことするん」と。するともう一人の息子がすかさず答えた、「節約してるんだよね」と。私は頭を洗っているから口がきけず、ただ黙って頷くだけであった。小さな幼児でも私の本性を見抜いていたのである。

私がこんなことを風呂場でやっていたなど家内には一度も話ししたことはない。当然だ、呆れられるにきまっている。あまりにもみみっちいのは自分でもわかっていた。でも、どうかすると私はちっぽけなことに目が行っちゃうのだ。そうすると、もったいない精神がすぐ顔を出して来てしまう。私はなかなかその呪縛からは逃れられない。いくら頭で分かっていても気持ちは変えられない。だから、思いつく限りちっぽけな節約にいそしんで来たのである。

それを子どもは毎日のように見て育った。私のいじましい精神が息子に受け継がれていったのだ。今風の好ましい言い方に換えるならば、「エコノミー&エコロジー」だ。それはそれで大いに結構である。私は十分共感を覚える。だがしかし、そればかりでは女の子にはもてないのだ。この私がそうであった。だから、おそらく息子ももてないであろう。もてないかもしれない理由は私の息子に生まれて私に似たからなのだ。