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小児科医のコラム39 新・孟母三遷の教え

コラム39 新・孟母三遷の教え

孟母三遷の教えとは、孟子の母が孟子の教育のために転居を繰り返した故事に由来するものである。学校の近くに遷ったら孟子がみずから礼儀を学ぶようになったので、ようやく安心してそこに定住したのだという。子どもの教育のためには環境が大切であるという教えとされている。ところで我が引間家も一度引越ししたことがある。私が幼稚園に入る前の頃だ。父の転勤に伴って社宅から父の実家に入ることになった。そしてその実家というのは小学校に隣接して建っていた。ということは、意図したわけではないものの我が家も孟母三遷を地で行くことになったのであった。つまり「引間一遷」である。

家の裏側が小学校である。塀を挟んだ向こうは校庭なのだ。だから、ちょくちょく野球のボールやドッチボールなどが飛んで来た。そして、それを取りに子どもが無断で塀をよじ登って侵入して来る。塀には木戸が付いているものの普段はかんぬきが掛けられていて通ることは出来ない。やたらと子どもが入り込んでイタズラされては困るからだ。時としてボールがそのまま見捨てられてしまうこともあった。取りに行けば家の人に叱られると思ったのだろう。放置されたボールを見つけては、塀の向こうに投げ返してやった。

私は必然的に隣の小学校に通うことになった。裏の木戸を通って行けば校庭を突っ切って校舎の玄関まで一直線である。しかし、私はちゃんと家の玄関を出て、表の道を歩いて行って、校門から学校の敷地内に入るという『遠回り』をした。遠回りといったってそれが正規の通学路である。それにしたって他の子に比べればずっと短いのだ。家が学校に近いということは、より遅くまで家にいられる。つまりそれだけ朝寝坊が出来るのだ。家の便所で「大」の方の用を足している最中に学校の予鈴を聞くことさえあった。始業時間ぎりぎりになってから家を飛び出しても間に合うのである。ところがちょっとでも余計にぐずぐずしているともう取り返しがつかない。いくら全力疾走しても間に合わないのだ。私は遅刻の常習犯になった。

私はよく忘れ物もした。朝いよいよ時間がなくなってから慌てて支度するからだ。どうしてもの時は家に取りに帰ることもあった。休み時間に校庭を走って木戸の所に行くのである。そして、だめもとで木戸を確かめてみる。たまにはかんぬきが掛け忘れてあることもあるのだ。開けばそのまま木戸を通って自分の家に侵入する。開かなければ塀をよじ登るのだ。そして、忘れ物を持って学校に戻る時はかんぬきを外して木戸を通ったのである。外したかんぬきは下校後に掛けなおしておけばよかった。そして上級生にもなると忘れ物を取りに帰ったついでに冷蔵庫から牛乳を一本取り出して、それを飲み干してから学校に戻ったりすることもあった。

私は小学校を卒業して地域の中学校に入学した。まずいことにその中学校も家のすぐ近くである。小学校の隣なのだ。通学路は小学校を超えて行く分だけ長くなった。しかしそう大した距離ではない。だから私はぎりぎりになるまで朝寝した。そうするとチョットでも下手をすると遅刻である。家が学校に近いばっかりに遅刻癖はなおらず、ズボラな性格が助長される結果になったのである。

高校生になった。今度は電車通学だ。これまでの癖が抜けずに朝ぐずぐずしていたら家を出るのが遅れてしまい、電車に飛び乗る経験を何度か繰り返した。もし乗り遅れようものならたまったもんじゃあない。隣町の学校まで十数キロの道のりがある。自転車をこいで行かなければならないのだ。そんな恐怖に怯えるのはもう御免だ。いっそのこと早起きした方がまだましである。そして、どうせなら一本早い電車に乗ってみようと思い立った。そのぶん余計に早く起きなければならないが、万一何かの都合でその電車に乗り遅れても次の電車には余裕で間に合う。安心だ。早速実行してみた。電車はだいぶ空いていた。わざわざ早い電車に乗ろうとする学生はいないのだ。しかし、大体席は埋まっていて運がよくないと座ることは出来ない。いつも乗っていた電車はすし詰め状態だから座れるはずもなく仕方がなかったのであるが、せっかく早起きして乗った電車なのに座れないのは惜しい気がする。ぜひとも座って乗っていきたい。そこで私はさらにもう一本早い電車に乗ることにした。相当早く起きなければならないが座るためだ、しょうがない。早速実行した。ガラ空きであった。余裕で座れた。くつろいで外の景色を見ることが出来る。気が向けば英単語の本を出して見たりする。優雅である。今までとは大違いだ。学校に着くと正門の扉は閉まったままである。門のかんぬきには鍵がかかっていないから自分ではずして、重い鉄の扉を押しあけて校内に入っていった。一番乗りである。もちろん教室に行っても誰もいない。トイレにも誰もいない。だから私はトイレの個室に入ったときもドアは開けっぱなしにした。いや、最初はドアを閉めようとしたのだが、ふと考えると誰もいないのだから見られる心配はない。敢えて閉める必要はないことに気が付いた。必要のないことをするのは何だかばかばかしい。だから開けっ放しにしたのである。そうすると、しゃがんでいても窓の外の青空を眺めることが出来た。そんな静寂と開放感の中で私は気持ち良く「大」を済ませた。実に爽快であった。こんなことした生徒は開学以来一人もいないであろう。今後やる奴も出て来ないであろう。優越感である。そして授業が始まるまで、その日の予習をして過ごした。毎日これを繰り返した。そのおかげで卒業時には皆勤賞をいただいたのであった。

ところで、孟子一家はもともと墓場の近くに住んでいて、それが市場の近くに引っ越して、次に学校の近くに引っ越したのである。そして孟子は大成したのであった。ということならば二回しか引越しをしていない。なのにどうして「三遷」なのだろう。辞書を調べてみても「三回引越しをした」とか「三か所に住居を移した」と解説されてある。おかしい。本当は孟母二遷と言うのが正しいのではないだろうか。ある辞書では「三回」という表現を用いず、転居したことだけを記載して曖昧にしてある。この辞書の編集者はもしかしたら気付いていたのかもしれない。

孟母三遷は確かに孟子にとっては有効だったのかもしれない。だが、ズボラな私にとってはむしろ逆効果であった。それに、もしかすると墓場のそばに住めば偉い坊さんになる子どもだっているかもしれないし、市場のそばに住めば大商人になる子どももきっといると思う。孟子個人にはたまたま学校の近くが合っていたのである。だけど、私には合ってなかった。そこで、私はここに新・孟母三遷の教えとも言うべきものを提唱したい。「子どもの教育のためには環境が大切なのはいうまでもないが、しかしそれはその子どもに合ったものじゃなければだめなんだよ」と。名付けて「引間一遷の教え」である。