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小児科医のコラム41 インドの少年と金沢先生

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コラム41 インドの少年と金沢先生

私は二年間浪人した。賄い付きの下宿生活である。浪人の身であるから世の中の何の役にも立ってはいない。いや、まだ役に立つ目星さえも付いてはいない。だから遊ぶことなどもってのほかだ。そんなことに使うお金も時間もない。勉強しなければならないのだ。そう考えて私は机にかじりついた。一日が終わると三百六十五分の一だけ試験に近づくのだ。不安である。あっちもやらなきゃ、こっちもやらなきゃと場当たり的になった。焦りながらの勉強はいくらやってもろくに身につかない。当然成績は上がらなかった。気持ちに余裕がなくなる。そうするとまた余計に焦る。悪循環であった。

そのころの私はあらゆるものを切り詰めていた。それでも娯楽といえるものがない訳ではなかった。銭湯である。風呂は生活の一部だから、銭湯に行ったってべつに悪くはないのだ。体を洗って湯船につかるとリラックスできる。そのひと時を心ゆくまで楽しむのである。しかし、毎日入る必要はないだろう。百四十円の銭湯代がもったいない。一日おきにしようと決めた。だが、そうすると週に三回か四回だ。月曜が定休日だから三回なら、火、木、土か水、金、日の組み合わせだ。いずれにしても丸二日続けて風呂に入れない日が出来る。それはちょっと哀しい。もし週四回にするとしたら火、木、土、日か、火、水、金、日の組み合わせだ。どっちも二日続けて入る日が出来てしまう。それは贅沢だ。どうしようか、毎週悩みの種になった。

そんなある時、予備校の友達から遊ぼうと誘われた。私はとてもそんな気にはなれなかったが、しつこく誘うのを無下に断るのも後味が悪い。後々まで嫌な気持ちを引きずるよりいいかと思い、付き合うことにした。皇居外苑の北の丸公園に連れて行かれたのである。ぶらぶらと日本武道館の周辺を散策していたら、せいぜい十歳ぐらいの外国人の少年が近づいて来た。インド大使館から来たのだという。他にも仲間のインド人らしい子がいてゴムボールとバットを持っている。野球しようと言うのだ。ここなら広い芝生もあるし、人もあまりいない。どうやらいつもここで誰彼となく声をかけて遊んでいるようである。我々は勉強道具の入ったカバンを芝生の上に置いて野球を始めた。都会のど真ん中で思いっきり体を動かして遊んだ。久しぶりに我を忘れて楽しむことが出来たのである。気分が晴れやかになった。時間を潰し体も疲れてしまったけれども、何か体中に溜まっていたものが一気に発散したようだ。遊んでよかった。元気になった気がした。これでまた頑張れそうだ。

時には息抜きも大事だと実感した。頭では分かっていたつもりだったが、実際には焦るばっかりでそれどころじゃなかった。今後はそうならないように積極的に意識して自分をコントロールようと思った。その方が勉強もはかどる。そうでないと精神や体の健康まで害してしまうだろう。後日、私は友達とまた北の丸公園に行ってみた。案の定、あいつらがいた。ボールとバットを持って来ている。当然、草野球の第二ラウンドが始まった。

しかし、そうそう野球ばっかりしているわけにもいかない。なるべくなら体力を消耗したくはない。別の息抜きを考えなければ。できれば手軽に楽しめて費用がかからないものがいい。ある時、私は耳寄りな話を聞いた。あの北の丸公園に誘ってくれた友人が私にこぼすのである。日本史の授業がとにかく面白いのだという。それはそれでいいんだけれど、その反面あんまり受験には向いていないのだと。私は受験科目に日本史をとってはいないが、そんなに面白いなら試しにその講師の授業に出てみようと思った。予備校の授業には出席の義務がないし、いちいち検閲されることもない。だから学生は自由に欠席するし、逆にモグリの学生は空いている席に座ればいい。安心してタダで聴けるのだ。しかも時間帯の遅い授業になるほど欠席者が多くなる傾向がある。私はその先生の夕方の授業を選んで教室に行ってみた。席がいっぱい空いていた。そこに何食わぬ顔で座った。

その日は鎌倉幕府創成期の話、作家永井路子が直木賞をとった歴史小説「炎環」の内容である。歴史上に起こったことを物語風に講義してくれるのだった。まるで講談を聞いているか大河ドラマを見ているようである。これでは話の内容に引き込まれて年号を暗記するどころではない。教科書を持っていなくても聴いているだけで面白いのだ。毎週出席することにした。毎回一つのテーマが取り上げられていった。ということは年間を通しても日本史全体を到底カバーし切れないだろう。確かに受験には不向きである。しかし、私にとっては絶好の娯楽になった。歴史にも興味がわいてきた。かくして私はテンプラ学生となったのである。

その講師は確か金沢先生という名前だったと思う。ある日の授業の中で先生が「生きる目的とは何か」を話してくれたことがある。もちろんその先生個人の考えなのだが、それは「自分なりの世界観を持つこと」なのだそうである。つまり、いま自分が住んでいるこの世界とは一体全体どういうものなのか自分なりに把握することなのである。それを一生かけて行うのだと。そして死ぬときには、「ああ自分はこういう世界に住んでいたのか」と独自の世界観を持って満足して死にたいと。その手段となるのが学問である。学問が世界の一面を教えてくれる。もっと知りたければもっと学問を探求すればよい。より多面的に知りたければ、より多くの学問を学べばよい。その学問の基礎となる考え方を学ぶのが高校の教科である。だからたくさんの教科がある。勉強するのは受験のためだけではなく、本当はそういう意味があるのだと、そのようなお話だったと記憶している。

私は『なるほどなあ、そういう考えもあるのか』と思った。勉強する意味が分かった気がして少し溜飲が下がった。高校じゃあそんなこと全く教えてくれなかった。『もっと早くに聞いておけばなあ。浪人する前に…』と思った。今さらぼやいてみてもしょうがない。本来ならばとっくに自分で気が付かなくっちゃいけないことなんだろう。だけど、勉強する意味なんて突き詰めて考えては来なかった。取りあえず目先の試験勉強に追いまくられていたのだ。カリキュラムがそうなっているから、受験科目だから、くらいにしか思えなかった。つまり、あくまでも押し着せでやっていたのだった。だから今一やる気が出なかった。金沢先生にこのようにはっきり言葉で表現されると新鮮であった。

あれ以来、私は先生を見習って自分にとっての「生きる目的」とか「勉強する意味」を意識して考えるようにしてきたつもりである。でも、なかなかいい考えが浮かばない。仕方がないから取り敢えず先生の考えを一時的に代用させていただくことにした。しかしそれはあくまでも人の考えである。もっと自分にぴったりと来るものを自分で探さなければならない。もしそれが死ぬまでの間に出来なかったとすると、代用したつもりだった先生の考えをそのまま私の生きる目的にさせていただくことになってしまう。結果的にそうなったとしても、それはそれでいいと思う。自分で探せなかったのは少し残念だけれど、金沢先生の考えは私にとってかなり好い線を行っているのだから。

あのインドの少年たち、今頃どうしているだろう。四十過ぎのおじさんになっているはずだ。日本語しゃべっていたから、もしかすると日本と何らかの関わりのあるビジネスマンになったか、親を見習って外交官になって日本に来ただろうか。北の丸公園おぼえているだろうか。昨年、私は上京した時に時間があったので三十四年ぶりに行ってみた。変わらずに芝生が広がっていた。その上に少年の姿が思い浮かんだ。今さらながらだけれどお礼が言いたい。本当にありがとう。君たちのおかげでなんとか潰れずに受験を乗り切ることが出来たのだから。

金沢先生、どうしていらっしゃいますか。とうに平均寿命を越されたとお察しします。お会いしてみたいです。先生は私のことなんか全然知らないでしょうけれど、先生の講義は私の頭の中に永久保存版で残っています。先生の歴史話をもっともっと聴いてみたい。それから先生の今の「世界観」はどのようなものになっているか伺ってみたい。先生、私もいずれ独自の世界観を持ちたいと思っています。先生のおっしゃる「勉強する意味」はその通りだと思います。だから、時々先生の言葉を思い出して、今自分がやっていることの意味が何なのかを意識して考えるようにしています。何らかの意味を見つけてはやる気を起こすようにしてきました。先生からずっと励まされ続けて来ているのです。だから、私は先生を私の恩師であると勝手に思っております。本当にありがとうございました。

私は受験生に伝えてあげたい、インドの少年と金沢先生から教わったことを。いやいや、受験生ばかりではない。仕事、家事、育児、介護、その他、何らかの渦中にある人すべてにも。