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小児科医のコラム66 謎

コラム66 謎

約五十年間いだき続けてきた謎がある。私にとって最大の汚点となった事件の謎だ。これまで封印して誰にも話すことはなかった。だが、到底忘れることなどできない。いやそれどころか何時かその真相を知りたいと思い続けてきた。

小学校の低学年のある日の夕方、オシッコしたくなって家の便所に行った。扉を開けると床に何か落ちていた。拾い上げると小さく折りたたまれた紙切れであった。広げてみたら鉛筆で何か書いてあった。
「ひきまくん、エッチはやめてください」
読んで驚愕した。こりゃ投げ文だ。目の玉が飛び出しそうになるとはこのことだった。
『だれが書いた』、『だれに宛てたんだ』、『なんで書いたんだろう』、疑問が次々に沸いて呆然となった。

誰が書いたのか全くわからない。想像をめぐらせた。きっとどこかの女の子に違いない。男子に宛てたものだ。我が家で男の子といえば兄貴と私の二人だ。どっちに書いたんだろう。兄貴に聞いてみるか。いやだめだ、そんなことすればやぶへびだ。聞いたって否定するに決まっている。そうじゃなくても、もし兄貴に宛てたのでないと分かったら、おのずから自分に宛てたものということになる。そうなりゃ恥だ、バカにされるだろう。

何でこんなもの書いたのか、すぐ心当たりが思い浮かんだ。もしかしたらスカートめくりか。私は先生の目を盗んではスカートめくりをしていたのである。その苦情をクラスメートが書いたのかもしれない。だがその確証はない。できることならばそうではないと願いたかった。こんなこと親に知れたら身の破滅だ。立ち尽くした便所には窓から西日が差し込んでいた。

しかしどうやってこんな場所に投げ文をしたんだろう。便所は家の一番奥だ。玄関から上がり込んだとすれば、居間や台所を通り越して行かなければならない。なにもそんな所まで忍び込む必要はない。玄関先に放り込むだけでいいはずだ。もしかして家の外から窓越しに投げ入れたのか。そうだとしたら便所の窓を開けなければならない。相当高い位置だ。ジャンプして窓枠にしがみつけたとしても、そのまま片手で窓を開けるのだ。小学生の女の子には至難の業だ。たとえ出来ても、投げ入れてから更に閉める作業が待っている。第一、敷地に侵入するのには塀を乗り越えなければならないじゃないか。

どちらにしたってよほどの執念がないとできない芸当だ。ならば、もしかしたら内部の人間の仕業か。それなら便所に来ることなど簡単だ。懸命に推理を続けた。じゃあ誰だ。こんなことを親がするはずはない。兄か、妹か、どちらかが級友に頼まれてやったのか。いや待て、まだ俺に宛てたものと決まったわけではない。それにだ、いつ誰が便所に入るか分からないのだ。だったら、目当ての者が必ず投げ文を拾うとは限らない。それじゃあ投げ入れること自体、意味無いではないか。

考えれば考えるほど謎は深まった。しかしグズグズはしてられない。誰かが来る前にこの紙切れを始末しなければ。隠してしまおう。どこがいいか。なるべく人が立ち入らない所、かつ自分の身の回りから離れた場所だ。便所の隣、物置代わりの部屋だ。あそこなら暗くて湿っていて誰も使ってはいない。そこの押し入れの中だ。

便所からそっと出てあたりをうかがった。何の気配もない。隣の部屋に忍び込んだ。押し入れのふすまを開けたら土埃の匂いがした。ぎっしりと予備の蒲団がしまってある。重たい蒲団の間に頭を突っ込んだ。手でかき分けて奥へと進むとすぐ壁に突き当たった。そこから下の方に手を伸ばした。なるべく奥の方に紙切れをおっ放した。ここなら誰の目にも触れることはない。蒲団から抜け出てそっとふすまを閉めた。そして静かにその場から離れたのである。誰もいない。これで大丈夫だと思った。ホッと一息ついた。

しかし、それもつかの間だった。しばらくして母がいきなり詰問してきたのである。
「あきちゃん、何か隠していることがあるでしょ」
戦慄が走った。
『なぜ、どうして、まさか』
いくら否定しても母は確信しているようだった。
「隠してるんだろ、探し出すから」と吐き捨てるように言って物置部屋の方に歩み出したのである。母の腰にしがみついた。
「知らないよう、知らないよう」
必死に引きとどめようとした。だが勝てるわけはない。力負けしてズルズルと引きずられた。まっしぐらにあの押し入れに向かっている。これぞ青天の霹靂、胆が潰れそうだ。そして、知っていたかのようにふすまを開けたのである。蒲団の奥に手を突っ込んで紙切れをつかみ出した。揉み合いになった。無駄だった。

脳裏に残っているのはここまでである。その後どうなったのか思い出すことは出来ない。多分、憶えていられないくらいショックだったのだろう。紙切れを母に読まれたのだ。最大の汚点となった。そしてそれ以来、家では気まずい雰囲気の中で暮らした。学校では疑心暗鬼になった。誰の仕業か見当もつかなかった。

そして一年か二年後のことである。学年末に文集を作ることになった。その最後の頁には寄せ書きを載せることも決まった。クラスメート全員分の用紙が用意された。お互いにメッセージを書き込み合った。修了式の日、文集を受け取った。私への寄せ書きが綴じ込んであった。みんなどんな言葉を書いてくれたのだろう、早速開いて見た。男の悪友からのメッセージが目に飛び込んできた。仰天である。
「エッチするなよ」
憤慨だ、悪ふざけにも度がある。よりによってこんなこと書くとは。だが、次の一瞬あの悪夢がよみがえった。もしや、投げ文の犯人はこいつだったのか。謎が一気に噴き返した。

あれから五十年近くも過ぎた。いぜんすべてが謎のままだ。誰にも話さず封印してきた汚点である。いつか真相を知りたいと思って来た。それを知る手掛かりが一つだけある。母だ。何らかの事情を知っているはずだ。隠した場所を知っていたのだから。だけど、はたして覚えているだろうか。私にとっては一大事件、母にとっては単なるお仕置きくらいにしか思ってなかったのかもしれない。実家に帰ったら今度こそ意を決して聞いてみるか。そうじゃなきゃこのまま死ぬに死にきれない。